小学校低学年のエピソード②

地元の小学校へ入学した私は、どんどん成績が落ちていきました。

理由は明白です。黒板の字や先生の示すものが見えず、授業が理解できなくなっていったのです。

学年が上がると学習内容も複雑になっていくため、成績も落ちていきました。

 

 

当時は、何が見えていなくて、何が見えにくいのか全くわからなかったのです。

ですから、対処しようもありません。

今の私であれば、視覚支援学校の教師であったし、そもそも自分の見え方がわかっているのでどう対処すれば良いのかわかります。

生まれつき低視力の世界しか知らない私にとって、周囲の人も私くらいの見え方なのだと思っていましたし、そのことを疑ってもいませんでした。

そんな認識の中で、本人は気付くはずもありません。

 

 

【エピソード1】 マラソン大会での悲劇。

マラソン大会の当日。快晴のスポーツ日和です。気合を入れてスタートしました。

スタートして間もなく、腹部に激痛が走ったのです。息ができなくなり、めまいがしました。コースを示すためにポールにビニールテープが結び付けられていたのです。そのポールの先が腹部に直撃したのです。私にはまったく見えないものでした。今思えば、黄斑部に異常がある私は、眩しさを感じていたことと、乱視のため地面の色と似た木のポールが同化して見えていなかったのです。

負けず嫌いな私は、そこからどんどん追い上げて、十位以内に入った記憶があります。でも、何より鮮明に覚えているのは、腹部の傷みと衝撃です。

 

【エピソード2】 足元注意。

放課後は学童に通っていました。ある日、みんなで裏山にのぼることになったのです。みんなが集合するまで、公園で遊んでいました。気が付くと職員と大半の児童たちは、すでに出発していたのです。数名の児童は出遅れました。焦ってみんなと駆け出すと、最後尾にいた私は派手に転びました。落ち葉のうえだったので膝はさほど痛くありませんでした。みんなに追いつくと、職員の方が驚いて私に駆け寄ってきました。

「頬、どうしたの!?」

「なんのことだろう?」と思い頬をさわると、右手が真っ赤に染まったのです。その瞬間、右の頬が濡れている感覚に襲われました。

それからは病院に担ぎ込まれ、右の頬に今も残る傷をつくりました。母は女の子だからと、2件も病院を受診させてくれました。道のりも遠く、通院するのが大変だった記憶が残っています。後で聞くと、この出来事は転校を考える大きなきっかけになったとのことです。

右の目の下だったので、眼鏡を装着していてよかったな~と思います。

 

 

まさしく、小学1~2年生までは、「もの言わぬ弱視」だったのです。