障害をもって働くことの難しさ。

高校を卒業後、障害者雇用で就職しました。

最初は研修の日々でした。

大きな会場で、同僚と交流をしたり専門の方の講話を聴いたりと、見えにくくて困ることもありましたが、乗り切ることができました。

 

 

課題と解決への模索

実際に職場に配属されて働き出すと、日に日に眼精疲労が悪化していきました。

業務内容は、とにかく目で確認して行う作業ばかりでした。今思えば、私の視力に向いていない業務内容です。当時は自分にどんな仕事が向いているのかわかっていませんでした。

悩んだ挙句、休憩の時間を分割して回数を増やしてもうえないか交渉することにしました。眼を休めることで改善しようと考えたのです。上司に申し出ると、対応してくださいました。それでも、吐き気や頭痛、めまいが連日続きました。

 

そんなある日、別の部署へ応援に行くことになりました。その会社ではよくあることでした。応援先で説明を受けて、業務に取り掛かりました。その部署の上司から、スピードが遅いことについて指摘をうけました。

しかし、私にとって半透明で見えにくいものを扱っていたので、どうしてもそれ以上スピードを上げることができませんでした。その旨を、説明すると、

「目が悪い人なんてそこらへんにたくさんいる。眼鏡をかけた人なんて珍しくない。」

と言われました。それでも理解して欲しくて、障害者手帳を提示して雇用されていることや、矯正視力が低く、眼鏡をかけて矯正ができる方とは少し違うことを伝えました。

私の説明の仕方も未熟だったと思います。なかなか伝わらず、その後も苦しい時間が流れていきました。頑張ってこなしているけれど、周囲の人に迷惑をかけてしまっている申し訳なさと、伝えたいことが伝わらない虚しさで、心臓がドクドクしました。

 

帰り際に、自分の部署に戻り、直属の上司に相談しました。大きな会社ですから、みんながみんな、私が障害者雇用であることを知らないのです。

 

退職が頭をよぎる

 

それから、幾度かそういうことが続きました。残業する日も増え、眼からくる体調不良が悪化していきました。眼の疲れから、見えにくくなっていきました。

 

体も心も限界を超えたころ、教師を目指さなかったことや就職したことを後悔するようになりました。

もう、自分で考えら得ることは行動にうつしてみたけれど、どう解決していったらよいのかわからなくなってしまいました。

そして、眼の状況が悪化し退職しました。

 

しかし、退職後、私の心は大きく乱れていきました。

 

*****振り返って思うこと****

 私はこの経験を経て、自分の障害の状態と業務内容に向き不向きが存在することを知りました。また、障害を周囲に伝えることの難しさや支援の依頼の方法や内容を自分で理解しきれていない未熟さに気が付きました。この就職は、社会人として生きる私自身と、向き合うための大切な経験になりました。

 また、この経験が、障害者雇用や障害理解、自己理解の活動へのエネルギーとなっています。