自身の障害とうまく付き合っていく。
※下記は過去の内容です
大学へ進学した夏、障害とさらに向き合う出来事がありました。
下記の文章は、当時、文学科の授業で制限文字数以内で文章を書く課題が出たときに、実際に書いたものです。稚拙な文章ですが、推敲せず、そのまま掲載します。
タイトル 「二十歳の夏」
この夏、私は一人で東京へ行った。目的は視力回復手術の適応検査だ。この手術は二十歳からしか受けることができないとういうものであり、十六歳のころから密かに計画を立てていた。
私は先天性の強度乱視性近視で、眼鏡で矯正しても〇、三(現在は進行して〇、〇九)という視力の低さである。小さいころはきにならなかったのだが、学年が上がるにつれ、不便なことが多くなり、視力が低いという理由で周りの人は出来て私には出来ないという場面も増えていった。
手術を受けられる確率は五分五分ではあったが、視力が回復すれば今まであきらめてきたことが、できるようになるという期待が日々強くなっていった。車の免許を取ったり、球技を楽しんだり、アルバイトもできる。小さな字や黒板の字も苦も無く読める。自分の行動範囲も広がり、眼の疲れからも解放されるだろう。いろいろ想像するだけで胸がふくらんでくる。
すべての適応検査を終え、担当医に呼ばれた。医者は申し訳なさそうに私にわかりやすく説明してくれた。視力が低すぎて適応せず、回復する手段は無いというものだった。この時、何かが音を立てて崩れたような感覚を味わった。
「この台風の中、北海道から来てくださったのに何もしてあげられなくてすみません。」
医者の言葉で我に返り、深々と頭を下げて病院を出た。
涙が溢れないように顔をあげ、前を向いて渋谷の街を歩く。知らない道をとにかく真っすぐ歩いた。手術を受けられないと思っていたし、覚悟もしていたのに顔がゆがむ。
少し気持ちが落ち着いたので、母に電話をした。その声を聞いた途端、今まで堪えていた涙がこぼれた。
「産んでくれてありがとう。視力が低くても大丈夫。現実を受け止めて一生懸命に生きて行く。今まで苦労してきたこともたくさんあったけど、それが私を強くさせてくれたし、成長させてくれたんだと思ってる。これからもお願いします。」
母も泣きながら黙って話を聞いてくれた。
視力が回復すれば、今までとは違う新しい自分が待っていただろう。しかし、検査を受けたことは無駄ではなかった。手術が受けられない現実を突き付けられたことで、今の自分を受け入れようと思えたのだから。
この夏の体験は、障害をもって生まれた私が、自分自身と向き合うために必要だったのかもしれない。
******振り返って思うこと*******
この出来事は、障害と向き合うために必要な一つの経験でした。
私は「障害を受け入れられた」と完了形で言い切ることをしません、
なぜなら障害を感じる瞬間は終わりがないからです。
物理的な要素において感じられる不自由さ ―― 。
人との関わり合いの中で生じる不自由さ ―― 。
これらは、日常生活のあらゆる場面で感じる可能性があります。
想像を超える不自由さや困難さを感じた時に、落ち込む時だってあるでしょう。
しかし、その都度その都度、障害と向き合い続けていくものだと思っています。
ですから、私は
「折り合いをつけてうまく付き合っていこう!」と言う気持ちを大切にしています。
これらは、自己理解や障害受容といいます。
障害をおもちの方が、この考え方や知識を得ると
障害に関して生きやすくなります。